時折酷く卑屈になる時が有る。 しかもその要因には殆ど景兄さんが絡んで来る。 お盆期間の帰省ラッシュ。 自分も世間に例外なく、実家に戻って来ていた。 何だかんだと言いながらも、望も帰省していた。 戻って来ないのは縁兄さんと…景兄さん。 先日自分の元へやって来た時には『一緒に帰省する』と云う事で話は纏まった筈なのに、 今私は一人で此処に戻って来ていた。 高い天井。 広く、長い廊下。 小さい頃は望が此処の廊下を何度も何度も足袋で滑って遊んでいた。 結局は転んで怪我をする迄望は遊び続けていたっけ。 怪我をして泣き出した望を手当てしながら叱ると、何時も景兄さんが宥めに来て… ――――景兄さんが。 長い廊下を抜け、以前景兄さんの部屋だった扉に手を掛けた。 勿論、居るはずはない。 時間が過ぎても約束した場所に景兄さんは現れなかった。 彼の性質は十分に理解している。 約束していて忘れる事なんか、多々有る。 特に景兄さんの様な職業だと、日時感覚があやあやになってくるから。 だから、こんな情緒不安定になる必要なんか、微塵もない。 …ないはずなのに。 扉を押し開き、中に入る。 記憶に有る景兄さんの部屋とは違い、代わりに女物の着物が何枚も並べられていた。 そう言えば、前に倫の衣装部屋代わりになっていると聞いたのを、今更ながらも思い出す。 景兄さんの匂いとは似ても似つかない、甘い女の香りが漂っていた。 記憶している景兄さんの部屋の内装が、記憶から薄れていく。 そもそもそんな部屋は実際に存在していたのか疑う程に、原型を留めていなかった。 普段触れる機会のない女物の着物に手を伸ばす。 倫の事だ。 きっと高価な着物に違いない。 ――――いっその事、私が女ならば。 負の思考ばかりが頭を擡げる。 そもそもこの脳味噌は、マイナスの分野でばかり利己的に動きすぎる。 「…何を、考えてるんだ」 一人、嘲笑しても空しいだけで、一向に気分は晴れない。 この家は、一人だと広すぎる。 空気が余って、仕方がない。 酸素が多すぎるのかもしれない。 頭がくらくらするんだ。 倫の着物に触れている指を離す事が出来なかった。 微かに香る、上品な香水の香り。 脳が、眩んだ。 昔はよく女の子に間違われていた。 顔立ちや、声や、体格。 逢う人逢う人に、女の子だと言われた。 いっその事私が女だったら―――― …だったら如何だと言うんだろう。 兄弟で在る、と云う枠は決して超えられないのに。 *** 着物を手に取ったのは如何してだったんだろう。 着物の丈はぴったりだった。 倫と私は然程身長も体格も変わらない。 小さい頃習った着付けを施し、適当に目に留まった帯を締めてみた。 観音開きの鏡面台を開き、鏡に映った己を眺めた。 …疲れているのかもしれない。 きっとそうだ。 そうでなければ、こんな馬鹿な事、するはずが、ない。 鏡面台に並べられた、化粧品に手を伸ばす。 馬鹿ついでに、口紅の一つでも、施してみたくなった。 …似合う筈がない。 女に間違われたのは、遠い過去の話だ。 今の自分に、似合う筈なんか、ない。 頭の中では冷静な思考が浮かぶ。 それでも、手に取った口紅を、唇にあてて、滑らせた。 上品な、真紅。 日に焼けてない肌に、それはやけに艶かしく見えた。 「…何を、してるんだか」 鏡に映った自分に向けて、微笑む。 酷く、疲れた顔をしている。 最近、ずっと忙しかったから。 だから、こんな馬鹿な事をしてみたくなったんだろう。 景兄さんは、今頃何をしてるんだろう。 きっと約束を忘れて暢気に家で寝ていたりするのが相場だろう。 自分だけがこんな情緒不安定になるなんて、割に合わない。 逢いたいけど、逢いたくない。 こんな気分の時は、一人で居たほうが、いい。 誰も傷付けなくて済む。 鏡に映った己に、溜息を吐く。 こんな姿、誰かに見られたら一族の恥だ。 自分の行動に呆れて又、溜息を吐いた。 そして、着物を脱ごうとして、帯に手を掛けた瞬間、部屋の扉が開いた。 「…倫か?」 声の主を認知した後、視界に景兄さんが映った。 目が合った瞬間、彼は酷く驚いた様に目を丸くした。 「命、…?」 「…景兄さん」 如何してだろう。 逢いたかったけど、逢いたくなかった。 別にこんな格好だから、とかでは無い。 一人で、居たかった。 こんな気分の時は、誰でも良いから、傷付けたくなってしまうから。 「如何したんだ?その格好」 「…暇だったんです」 一言言い捨てる。 景兄さんは目を丸くしたままだ。 当たり前だ。 弟がいきなり女装なんてしてたら、驚くに決まってる。 気がふれたのかと、思うだろう。 「気色が悪いですか?」 そう聞くと、景兄さんはいやに真剣な顔つきをして首を横に振った。 「いや、似合うぞ」 「別に気を使ってくれなくて結構ですよ。らしくないですね」 「今更、気を使う仲でもないだろ」 景兄さんが近付いてきて、私の頭を撫でた。 長身の兄さんを見上げると、兄さんは嬉しそうに笑っていた。 …別に嬉しくなんかない。 そう思うのに、身体がカッと熱くなった。 「今日は、悪かったな」 「約束、覚えてらしたんですか?」 「覚えてたよ。ただ…待ち合わせ場所間違えたんだ」 これが下手な嘘でもいい。 言い訳でも何でもいい。 その言葉を、信じたかった。 その言葉に、縋りつきたかった。 景兄さんが言う言葉を真実だと受け取めるしか、私に術はないから。 「…ドジですね」 「そうだな」 景兄さんが微笑むと、何故か私の心の奥深くに根付いている不安感は溶け出す。 ドロドロに、溶けていく。 「…景兄さん、」 無意識に、抱きついていた。 意味は、ないと思う。 敢えて理由をあげるとしたら、少しだけ、困らせてみたくなった。 景兄さんは動じる様子もなく、抱き締めてくれた。 その事に、少しだけ、泣きそうになる。 「…こういうのは、嫌ですか?」 「女装の事か?」 こくん、と小さく頷いてもう一度同じ様に問う。 その瞬間、髪を乱暴に撫でられた。 「嫌な訳ないだろ、大歓迎だよ」 顔を上げると、太陽みたいに微笑む景兄さんが見えた。 *** 景兄さんは、部屋に行くか、と聞いてきた。 今直ぐ抱いて欲しかったから、それを拒否した。 倫は華道の時間だ。 望も両親と一緒に町内に出ている。 この部屋には誰も来ない。 堪らなく、景兄さんが、欲しかった。 あとで文句言うなよ、と念押しされた。 その言葉に頷いた。 反転した視界。 景兄さんが真剣な表情で、顔を覗き込んできた。 「えらい別嬪さんだな」 「…皮肉ですか」 「馬鹿言うな。本心だ」 そのまま、唇を塞がれる。 唇を突く様に、舌が差し込まれる。 それを受け入れて、絡ませた。 稚拙な口付け。 それでも、もっと、欲しくて、必死に舌を絡ませた。 すぐに酸素が足りなくなって、二人して唇を離す。 その瞬間、後引く様に、透明な糸が、出来た。 蛍光灯に反射して、酷く、卑猥に見える。 先迄あんなに有り余ってた酸素が、足りない。 二人きりになると、酸素なんか、何時も足りなかった。 忙しなく息をついてると、着物の隙間に指を差し込まれた。 それに気付き、わざと腰を浮かす。 私に、触れやすい様に。 「…命、」 耳元で低く、囁かれた。 鼓膜を揺らしたその声に、背中がゾクリと粟立つ。 景兄さんの指が、性器に触れた。 既に張り詰めていたそこは、触れられた事を喜ぶかの様に、浅ましく震える。 「…っ、」 思わず首を反らす。 景兄さんは乱暴な手付きで、着物を左右に押し開いた。 乱れた着物から、露出した下半身の寒さに身体を小刻みに震わせる。 肌寒い。 でも、身体の奥深くは、火照った様に、熱かった。 景兄さんが指で触れていた私自身に、息を吹き掛けてくる。 それだけで、気が狂いそうな程、ヨかった。 「はぁっ…、ゃぁ…、」 浅ましい欲望に呑まれ、景兄さんを見つめた。 行動を促す様に、瞳に懇願の色を滲ませて。 微かに景兄さんが唾を飲む音が聞こえる。 そしてそのまま、咥えられた。 「ーぅっ…やぁ…!」 景兄さんは、私のやましい望みを、察してくれるから。 何時もこうして、私の欲っしてる快楽を与えてくれる。 私はそれに何時も、甘えている。 部屋に響く湿った水温。 酸素が足らなくて、必死に息を吸い込んだ。 視界に映る痴態。 五感を研ぎ澄ませると、身体の熱は一層酷くなった。 「…ぁ、っはぁ…んっ…く…景、にぃ、さっ…」 小刻みに両足が震える。 声を抑えようとして、口元に手を置こうとしたら、景兄さんが片手で私の両手首を掴んだ。 別に振り解こうと思ったら、振り解ける。 幾ら体格が違うからと言って、相手は片手、だから。 それでも振り解くことは、しない。 支配されてる、と云う感覚に酔いしれる。 「け、いにぃ…さんっ…ぁ…も、イくっ…はなし、て、下さいっ…」 部屋に大きく響く水温。 齎されている快感の元。 景兄さんは、離してくれる様子はなかった。 「…やだっ…に、ぃさんっ…離して、…も、ぅ…イ…」 再度の懇願も聞き入れて貰えず。 慌てて、足を閉じようとした。 それを景兄さんに押し広げられた。 大きく足を広げられて、羞恥に身体がカッと赤くなる。 それと同時に、性器が脈打ったのが、自分でも分かった。 「や、やだ…ぁぁ…っ、」 自分の意思とは関係なく、涙がボロボロと流れた。 「出せよ、命」 聞こえてきた笑いを含ませた、低い声。 背中がゾクリと震えて、 その感覚を後追う様に、精を、吐き出した。 *** 「白い肌に、赤い着物…浪漫の何たるかをよく分かってるなぁ命」 「…何がです?」 情事後、服を早々に着替え、着物の後片付けをしていた時に掛けられた言葉。 「相当そそられたな、アレは」 「そうですか」 事も無気に生返事を返し、溜息を吐いた。 「倫に気付かれなければいいですけど」 「まぁ大丈夫だろ?全部飲んだし汚れてはいな、…!」 その瞬間、鳩尾に肘鉄を食らわせてやった。 狙うは一点のみ。 「悪趣味です、兄さん」 「お前なぁ!仮にも医者だろ!人体の急所を突くな!」 激昂する景兄さんを見て、静かに口角を上げる。 先迄感じていた猜疑心は、何処にもなかった。 「命?」 名を呼ばれ、景兄さんに向って微笑んでみた。 ――――嗚呼、こんなにも、貴方に、依存している。 「…命は、本当に綺麗だな」 「何を言ってるんですか」 「今度は薄桃色の着物を着てる所が見てみたいなぁ」 顎をさすりながら、酷くだらしない顔をした景兄さんが呟く。 「…女がいいんですか?」 「馬鹿言うなよ。命が、いいんだ」 背中越しに、抱き締められた。 こんな事に死ぬ程喜んでしまう自分が、嫌だ。 嬉しくて、嬉しくて、涙が出てしまいそうなのを、 必死に我慢している自分が、酷く情けない。 でも、無理もないと思う。 私は、貴方を、愛しすぎてしまってるんだ。 「…命がいい」 耳元で、囁かれた。 湧き上がる感情を必死に押し込めて、努めて冷静を装う。 「うるさい…」 絶対に言わない、 言えるはずがない。 泣いてしまいそうな程、嬉しい、なんて。 絶対に。 「何だよ、相変わらずつれないな、命は」 景兄さんが様子を窺う様に顔を覗き込んできた。 だから、 「うるさい」 足りない身長差を埋めるべく、つま先立ちして、 唇を、奪った。
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