命が其の気持ちに気付いたのは、全くの偶然だった。 何気無い日常の中。 期末試験が迫っている、と云う理由で命は英語の復習をしていた。 命はどちらかと云うと文系だ。 英語は、不得手だった。 (不得手、と言っても命の中での問題だが) A:『Do you love his thing?』 例文を、命は声に出して、解答した。 (此れは英語を勉強する時の彼の癖だった) 「貴方は、彼の事を愛してますか?…と」 サラサラと、癖の無い達筆な文字でノートに書き込んでいく。 B:『I love him very much.』 Aの例文に対する答えを命は又声に出して翻訳した。 「私は彼をとても愛している…」 口に出した瞬間、脳裏に浮かんできた顔に驚いて、持っていた鉛筆を取り落とした。 私、とはBの一人称を指す言葉で有って、決して自分の事では無い。 彼、とはBの思い人で有り、決して望の事では無い。 そんな事は明らかだ。 改まって確認するのも如何かしてる。 何故、この英文を訳した時に、弟の望の顔が浮かんで来たんだろう。 「まさか、」 命は浮かんできた思考を自嘲する様に、口端を歪めた。 笑い飛ばすつもりだった。 自分の思考のおかしさに。 だが其の表情は笑みと云うには程遠い、引き攣った表情に成った。 *** 一旦気付いてしまうと、其の思いは抑えつけるのがとても困難に成った。 まるで、嵐の様に、心を掻き乱された。 しかもこの嵐は日に日に激しさを増していく。 日常的な事柄を行うのが、困難に成る程に。 命は普段何かで取り乱す事は、限りなく0に等しい。 しかし一旦取り乱すと、回復は中々見込めない。 後を引き摺る。 弟の望の様に、上手く切り替えが出来なかった。 普段やっていた事が出来ない。 如何して今迄普通に生活出来ていたのか、分からない。 訳も無く苛立ち、焦燥感に苛まれた。 理屈で処理出来ない物事に立ち会うと、命は途端に脆くなる。 誰かに助けを求めて、答えを与えて欲しかったが、如何説明して善いのか分からない。 他でも無い、弟の望に対してこんな気持ちを抱いているなんて、誰にも打ち明けられる筈が無かった。 当事者で有る望とは毎日嫌でも顔を合わせる。 望の姿が眼に入る度に、狂おしい様な、胸を締め付けられる様な、そんな不可解な感情に襲われた。 堪らなく苦痛だった。 ――――自分は望を、如何したいのだろう。優しく抱き締めたいのか、其れとも…荒々しく奪いたいのか。 答えは出なかった。 只一つだけハッキリと分かるのは、自分が単純な恋愛関係を望んでいるのでは無いと云う事だった。 死にたがりの手が掛かる弟。 只其れだけの認識だったのに、この想いに気付いてからは、こんなにも命の心の割合を占めていた。 四六時中、脳裏に浮かぶ思考は、望に関する事だった。 苦しかった。 堪らなく、苦しかった。 *** 「命兄さん、最近様子がおかしいですよ」 今日もお決まりの様に、自殺未遂を図った望の後処理をしている時に、不意に掛けられた言葉に心臓が厭な音を立てるのが分かった。 「…おかしいのは、お前だろ。飽きもせず毎日の様に自殺未遂を図って」 「私のは生まれつきですから取り立てる様な問題は無いんですよ。…其れより、命兄さん、何か有ったんですか?」 心配した様に、望が顔を覗き込んで来た。 一瞬、沈黙が流れた。 「何も、無いよ」 微笑んで返そう、そう思ったのに。 そんな余裕を持ち合わせていなかった様で、笑いは引き攣ってしまった。 「そうは見えませんが…」 望は益々心配そうに顔を覗き込んで来た。 居た堪れなく成り、命は望から微かに距離を取る。 不自然極まり無い其の態度に、望が眉根に皺を寄せた。 「命兄さん、」 「…試験が近い、から、」 「え?」 「試験が近いから、少し神経が昂ぶってたんだ。其れだけだ」 真っ白に成っていた頭を回転させて出た言葉は、中々に上手く言い繕えていた。 命は自分の解答に少しだけ安心した。 ――――未だ、大丈夫だ。 そして腰を上げ望の元を離れようとした時、 望が命の制服のシャツ裾を、掴んだ。 「私が、何かしましたか…?」 「望、」 「私に何か不満がお有りなら…いっそ、全て吐き出して下さい」 望は微かに涙で潤んだ瞳を、命に向けた。 其の表情に動揺した命が微かに身動ぎする。 「云って下さった方が、私も反省の余地が有りますから…だから、」 「望、お前は何か勘違いをしてる」 咄嗟に、望の指を払う。 紡ぎだした声は、微かに震えていた。 嫌だ。 こんな醜い感情に支配されて、自分を律する事が出来ない、なんて。 自分がこんなおかしい感情に飲まれている所為で、望にも被害が及ぶなんて。 絶対に、嫌だ。 「部屋に、戻るよ」 そう言葉を紡ぎ、其処を去ろうとした命の後を、望が追い掛けた。 「待って下さい命兄さん!何か私が至らない事をしてしまってたなら、」 望の指が、再び命のシャツの裾を握ろうとした其の瞬間、 命は其の指を振り払う様に、弾いた。 望は命の行動に、眼を丸くし、呆然と立ち尽くす。 「一人に…してくれ」 かろうじて振り絞った命の言葉に、望は何も言えずに只目の前に見える命の背中を見詰めた。 其処には、望の侵入を拒否するオーラが纏われている。 其の姿を視界の端に映し、命は歯噛みした。 今度は立ち止まる事無く、命は自分の部屋へと戻る足取りを進めた。 *** 後ろ手に締めた自室のドアが大きな音を立てる。 (実際はそんなに大きな音では無かったが、命の過敏に成った神経には大きく響いた) 其の儘、扉に背を付けてずるずると、床に座り込む。 視線を上げると、天井が見えた。 ――――まるで、地獄だ。 一つ屋根の下に居る実の弟に、抱いてはいけない感情を馳せる現状。 幼い恋なら、何度か経験した事が有る。 果たして其れを恋と呼んで善いのか不明だったが、つい目で追ってしまう、あの感覚。 そして、性欲がどんな物で有るのか、それなりに、理解しているつもりだった。 理論的に、 悪魔で、理屈で割り切れる範囲内で、 命は色々な知識を得ていた。 だが、望に対するこの感情は、命の知識では収まり切れない。 知識とは、全く違っていた。 今迄得てきた知識は一体何だったのか、と憤慨する程に。 命は、恐れた。 失恋の痛みを想像するよりも、寧ろこの想いが露見に成ってしまった時の事を。 この自分の中で鎮めている激しい感情が、望を(恐らく自分さえも)壊してしまう事が、只只恐ろしかった。 『I love him very much.』 …私は彼をとても愛している。 言葉は、魔術だ。 口に出した瞬間、漠然とした感情が、形に成る。 そして其の魔力は、命を捕えて、飲み込もうとしている。 今迄同じ屋根の下に十数年も居ながら、気付かなかったのは、無意識に制御してていたのだろう。 其れ程迄に、この思いは、深く、重く、淀んでいて…何処迄も、歪だった。 狂っている。 実の弟に抱く感情では、決して無い。 其れを認識出来るのは、未だ自分が正常で有ると云う微かな希望だ。 そして其の希望を得る代償として、認識出来る内に、この想いを忘却し、永遠に葬り去らなくては成らない。 全くの八方塞り。 出口なんて、何処にも見えない。 突然現れた迷路に迷い込んで、立ち往生する以外、術が無かった。 自分の無力さ・無能さを、恨んだ。 他の事が手に付かなく成る程、望と云う存在に焦がれている癖に、 いざ望を目の前にすると、逃げ出す事しか出来なかった。 ――――絶望。 望が何時も口にしているあの単語をふと、思い出す。 この言葉が辛辣に胸に響いたのは、初めてだった。 其の瞬間、背中に微かな振動を感じる。 誰かが遠慮がちに扉を叩いていると感じるのに、少し時間を要した。 「命兄さん…、居るんですよね?」 扉越しに聴こえてきた望の声。 恐らく心配して、来てくれたんだろう。 其の気遣いが今の命には、只只、痛かった。 何も返答せずに、暫くジッと息を殺す。 望が立ち去る気配は無かった。 何時迄も閉じこもっている訳には、いかない。 気持ちを、如何にか切り替えないといけない。 そう思い、命は口元に笑みの形を、作った。 『勉強疲れで、少し休んでいたんだ』 そう言い、微笑んでみせれば善い。 そうしたら、今迄通り、面倒見の善い兄と云う存在で、居られる。 命は立ち上がろうとし、床に手を付いた。 俯いた視線の先、床に幾つもの水滴が見えた。 そして其の水滴は尚も、増えていく。 「…?」 命は首を傾げ、其の水滴に指を伸ばし、触れた。 丸い水滴は形を壊し、命の指に付着した。 水滴は、止まる事無く、増えていく。 命は思わず自分の頬に触れた。 其処は、しっとりと濡れていて、又新たな水滴が伝うのが、分かった。 自分が泣いているのだ、と気付いた瞬間、途端に胸が圧迫される様に、苦しく成った。 嗚咽が、止まない。 口を押さえて、蹲る様にして、嗚咽を漏らした。 ――――微かな望みは、絶たれた。 ――――此れが、本当の…絶望、なんだ。 「命兄さん…?」 扉越しの望が室内の異常を感じ取ったのか、激しく扉を叩き始めた。 命は背中に響く振動を感じながら、何時迄も止まらない涙に身を捩った。
|