「相変わらずですね…景兄さんは」 命は一つ小さな溜息を吐いた。 足の踏み場も無い景の部屋を呆れた様に見渡すと、 其処ら中に広がっている画材や書物を一頻り整理し、一人分のスペースを確保した。 「少しは片付けたら如何ですか?」 切実な願いだった。 何時もこんな調子で部屋が散らかっていると、何だか来るのも億劫に成る。 「失敬な。散らかってるんじゃなくて、置いて有るだけだ」 「其れは其れは立派な…言い訳ですね」 如何見ても【置いてある】レベルじゃない。 命の常識から言うと、其れは散らかってるとしか認識されなかった。 「あれ、ナイフは何処行ったかな?」 景はゴソゴソと乱雑に転がっている画材を漁り始めた。 命は大きく溜息を吐く。 しょっちゅうこうやって『あれは何処だったか』とか『此処に置いてたのに』とか言ってる癖に。 何が『置いてある』だ。 整理が出来てない典型的な言い訳だ。 「おい、命も探してくれよ」 「…やっぱり片付けた方が善いですよ、兄さん…」 命は毒吐き乍も、画材を漁った。 そう云えば、こんなに部屋が散らかってる癖に、汚れていた事は一度も無い。 絵の具が飛び散っててもおかしくないのに、そんな痕跡は無かった。 散らかってる癖に、まめに掃除でもしているのだろうか。 自分の兄ながらも益々…変な人だ。 「おーい有ったか?…って、何笑ってんだ、命」 「え?」 うっかり表情に出てしまっていたらしい。 顔を上げた景に指摘され、命は咄嗟に首を横に振り、 「せめて使い終わったらケースの中に仕舞う様にした方が善いと思いますよ」 と溜息交じりに呟いた。 景は不意に口角を上げて、目を細めて命を見つめた。 何処か悪戯を思いついた様な、まるでこどもみたいな、表情。 命は不穏な空気を咄嗟に感じ取り、景を軽く睨み付けた。 「なんですか?」 「ん?いや、別に」 別に、と云い乍も景は命ににじり寄って来た。 命は慌てて少しだけ後ずさる様にして、距離を取った。 「景兄さん、ナイフ、見付かったんですか?」 「未だだよ」 距離を取った分だけ、距離を詰められた。 この儘だと、壁に追い詰められてしまう。 命は、立ち上がった。 「お茶を、」 「え?」 急に立ち上がった命に多少面食らった様に景は瞬きした。 「お茶を淹れて来ますから、その間に見つけてて下さい」 其れだけ云うと、命は景の答えを聞かずに、くるりと踵を返して、台所へ向った。 *** 命が茶を淹れ、戻って来た時には更に部屋の現状が悪化していた。 あちこち引っくり返して探したのだろう。 最悪な程に、散らかっている。 先命が確保したスペースもすっかり物で埋まってしまっていた。 「…整理しながら、探したら如何ですか?」 命は物が散乱しているテーブルの上を簡単に片し、其処にお盆を置いた。 「お、悪いな」 景が物を漁る手を止め、命の横にストンと座った。 無意識なのか、其の近距離に命は僅かに身を硬くした。 「…見付かったんですか?」 「いや、無いんだよな。何処に行ったんだか」 云い乍、命が淹れたお茶に手を伸ばす。 そして一口口に含んだ後、景は破綻した顔を命に向けた。 「命はお茶淹れるの美味いよな、此れなら何時でも嫁に行けるな」 「お茶なんて、誰が注いでも一緒ですよ」 敢えて引っ掛かった箇所には突っ込まずに命は答えた。 面倒臭かったのだ。 景は動じずに、手にしたお茶を口の中に流し込んだ。 其の瞬間、 「あっつ…!」 景の予想以上にお茶が流れ込んで来たらしい。 命は驚いて、咄嗟に後ろに下がった。 「大丈夫ですか?一気に流し込むからですよ」 「ひてて…ふまん、ほこのひっしゅほって…」 「はい?」 云ってる事が全く分からず、命は首を傾げる。 景は必死に其処に置いて有ったティッシュを指差していた。 「ああ…」 漸く納得し、命はティッシュを箱ごと景に手渡した。 景は受け取ると、口から零れてしまったお茶を拭き取り、其の後痛そうに舌を突き出した。 「ちょっと見せて下さい」 先の方が大分赤くなっていた。軽度の火傷の様だ。 「冷やした方がいいですね」 「そうか?」 景はズキズキする舌をそっと指で触れて、いてて、と小さく呟いた。 「触らない方がいいですよ。今、氷取ってきますから、」 立ち上がろうとした命の腰を景が片手で掴み、其の儘引き寄せた。 咄嗟の行動に、バランスを崩した命は景に背後から抱き締められる形になってしまう。 「なに、してるんですか…」 「いや、可愛いなぁ、と思って」 不満を漏らそうと振り返った命の顎に手を掛け、キスを落とす。 …熱い。 景の熱だろうか、其れとも混じり合い溶け合った熱さの所為だろうか。 命は急速に上昇していく熱に戸惑い、景を突き飛ばそうと試みた。 其れを察したのか、景が命の細い手首を掴む。 「んんっ…」 息苦しさに、吐息を乱すと、自分の息遣いが耳に煩く響いた。 「命が冷やしてくれたら善いかなーと思ってな」 微かに唇が離れ、聞こえてきた景の言葉。 「馬鹿じゃ…ない、ですかっ…んぅ…」 「でも、命の舌の方が熱いな…」 「はっ…何、云って…」 私は冷やせ、って云ったんですよ? 熱くして如何するんですか? 全く…景兄さんは理解出来ない。 命は混濁していく意識の片隅で、景をなじり続けた。 漸く唇が離れた頃には、もうどちらも息が上がっていた。 白い肌を淡い桜色に染めて景を見詰める命の瞳は、抑え切れない欲望でしっとりと、潤んでいる。 言葉に出さずに、命は景を誘う術を無意識に、知り尽くしている。 景はそんな命の様子に、如何しようもない程劣情を煽られ、其の場に命を組み敷いた。 命が、景の背中に手を回し、「景兄さん…」と誘う様に呟いた。 其の瞬間、景の心臓が大きく跳ねた。 「みこと…っ…いててて」 …如何やら今度は舌を噛んだらしい。 景は口を押さえて、涙目になった。 其れを酷く冷めた目で命が見つめる。 「…兄さんは、付ける薬が無い程…馬鹿ですね」 *** 「痛いなら、止めた方がいいんじゃないですか?」 命の忠告も聞かず、景は命のシャツに手を掛けて釦を外していっていた。 未だ、目尻には涙が溜まっていると云うのに、だ。 火傷した舌を噛んでしまったのは、かなり痛かったらしい。 だけど途中で辞める気は毛頭ない様子だ。 命は小さく「馬鹿じゃないですか?」と皮肉を漏らした。 「いやー…俺はさ、命を前にすると病気の時でも怪我の時でも、手を出さずにはいられない性分なんだよ」 「…私はそんな兄さん、相手にしませんよ?」 「酷いな、使い物にならないなら、捨てるのか」 「そうじゃなくて…、」 下らない会話をしている隙に景は釦を全て外し終わっていた。 日に焼けていない命の白い肌が露出する。 「…相変わらず、綺麗なもんだな」 「兄さんは美的感覚がおかしいんですよ」 「失敬な。芸術家に向って」 「超自己完結型の、ですけどね」 命の白い肌を、味見する様に景は舌を這わせた。 細く白い首筋が、微かに反るのを視線の端で捉えて、景は満足気に微笑んだ。 「やっぱちょっとヒリヒリするな…」 「だから、しなきゃいいんですよ」 「無理言うなよ」 「そのうち、死にますよ?」 「ヤりすぎて?」 景は屈託の無い笑みを命に向けた。 其の笑顔を見て命は居心地が悪そうに目を反らした。 「…少しは自重して下さい」 「だからー無理だってば。でも、そうだな…其の場合は保険は降りるんだろうか?」 「はい?」 「ヤりすぎて死んだ場合は、保険は降りるんだろうか?」 ――――馬鹿だ。 しかも至って真剣に考えているのが窺える。 命は深い溜息を吐いた。 「だから自重すればいいだけの話じゃないですか」 そんな死ぬだのと大袈裟な。 全く持って下らない。 「出来ないなぁ。だって俺は死ぬ程好きだから」 「ヤるのが、ですか?」 「いーや、命が、だよ」 「…馬鹿、」 溜息交じりに悪態を吐く。 「死ぬ程好きだから…腹の上で死ぬっつーのも、ある意味浪漫だな…」 独り言の様に聞こえて来た言葉。 命はほんの少し口元に笑みの形を作り、覆いかぶさっている景の広い背中に、腕を回した。
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