一応何度かノックをすると、中から聞きなれた命の声が聞こえた。 「どうぞ、」 ひんやりとした、声だ。 冷たい訳ではない。 何となく、この医院も寒くはないが、ひんやりとしている。 命の持つ独特の空気、みたいな感じだろうか。 扉を開け、手にしていた羊羹が入った袋をを掲げると、 命はほんの少し驚いた様に目を丸くした。 「景兄さん、」 「お前、好物だろ、羊羹」 「わざわざ買ってきてくれたんですか?」 「買ってきたと云うか、自分で食べようと思って買ったらお前を思い出したと云うか…で、気づいたら此処に来てたって感じだな」 「景兄さんらしいですね」 命は手にしていた書類を置いて、俺を見つめた。そして、笑う。 「相変わらず流行ってないなぁ」 「余計なお世話です。突っ立ってないで、何処かに掛けたら如何ですか」 愛想のない口調で、命は此処に留まる事を許可してくれた。 苦笑いを浮かべて、俺は元来患者が座る椅子を片手で引き上げてみた。 俺は無意識に人のパーソナルスペースに踏み込んでしまう癖が在る。 縄張り意識、と云う物が元々欠如している所為だ。 割と近距離に座る癖が在る為、命には何時も嫌がられる。 命は俺と向かい合う事を好まない。 そんな云われたって、俺には如何距離を測ればいいのか一向に分からなかった。 そして命から言われた言葉は、 ――――じゃあせめて、隣合って下さい。 それから俺は、命とは隣り合う事にしている。 何時だったか、目を合わせるのが苦手とも聞いた事が有る。 それが何故なのか分からず疑問を問い掛けたら 命は困った顔をしながら、少し微笑んだ。 『見抜かれる、でしょう?』 俺には命を見抜く事なんて出来ない。 具体的に何を見抜くのかが分からずに、問い詰めてみたが、 結局はぐらかされて答えは聞けずじまいだった。 「お茶を、淹れて来ましょうか?」 「あ、そうだな。じゃあ俺は羊羹、切っとくよ」 「お願いします」 命は腰を上げた。 その動作は、何故か洗練されて感じる。 只、立ち上がるだけのその仕草に。 綺麗だ、と思った。 残された俺は、羊羹の包みを開け、食べ易いで有ろう大きさに切っていた。 しかしこれが中々上手くいかない。 ぐにゃぐにゃと、実態を持たない羊羹は容易には切り分けられなかった。 「あーもう…くそっ…、」 「景兄さん、」 一人、羊羹と格闘してた間に命が何時の間にか戻って来ていた。 目の前に、ことん、とお茶を置かれた。 「お、有難う」 「羊羹、歪んでますよ。こういうのは、一気に切ろうとしない方がいいんです」 「そうなのか?」 ふと視線を上げると、こっちを見ている命と目が合った。 「景兄さんは不器用ですね」 絵に関して以外の事は全部。 柔らかく微笑む。 真っ直ぐに伸びた癖のない黒髪が風に揺れる。 時々、目が離せなくなる。 ずっと、見ていたくなる。 でも同じ位の衝動で、目すら合わせられなくなる時が有って、 俺はその度に、兄として命に如何接していいのか分からなくなる。 だから。 最近暖かくなってきたな。 逃げる様に、そう口に出そうとした。 その、つもりだった。 「……景、兄さん……?」 なのに、如何してだろう。 「…如何したんですか…?」 俺は命を抱き締めていた。 こうして抱き締めるのは久しぶりだ。 小学校の高学年になる頃には、もう抱きしめたりはしなくなったし。 命よりも、望を抱き締めている記憶が多い。 命は、あまり泣いたり甘えたりすることがなかったから。 一体何時を最後に抱き締める事をやめたんだろう。 髪に触れてみた。 癖のない真っ直ぐな髪は、見た目より柔らかい。 綺麗な髪だと、思う。 何時も、思っていた。 触れたいと、思っていた。 心臓の音が煩い。 何時もより早く、鼓動を刻んでる様に感じた。 こんなにひんやりとした部屋でも人間は汗を掻くもんなんだな、と頭の隅で暢気に思ったりした。 俺は、一体何をしてるんだろう。 抱き締めた儘どれだけの時間が経過したのか。 長いのか、短いのか、感知出来なくなった頃、 「…如何、したんですか?」 先の質問をもう一度。 何も言葉を発さなかった俺に聞いてきた。 その声色から、命が怒ってないことが分かる。 ひんやりとした、冷静な声が、少し動揺の色を滲ませる様に震えていた。 「…分からん」 俺は、有りの儘を答えた。 大人な景命の連載。 |