結局あの後。
俺達はまるで何もなかった様に、茶を飲んだ。
俺が切った歪な形の羊羹を平らげ、命がついでくれた茶を啜る。


そして、数回のノック音。
例の俺が名前を覚える事が出来ない彼女が顔を出した。
患者が見えた、と云う。
命は「どうぞ中に入れて下さい」と、医者の顔をして、言った。

それが合図だった様に、俺は腰を上げる。


羊羹、ご馳走様でした。
とても、美味しかったです。



帰り際に命が言った。
俺は生返事をし、医院を後にした。




帰り道はずっと下ばかりをみて歩いた。
何処に向うのかも決めてないのに、足は勝手に家を辿っている。
感覚も曖昧なのに、人間の身体とはつくづく不思議なものだ。
確実に己の身体だというのに、まるで違う生き物みたいだ。


案外、心もそうなのかもしれない。


ふと、空を見上げる。
橙色。
嗚呼、夕方だ。
冷たい風が、肌を擦る。

不意に唇を舐めた。
その瞬間、身体に走る、違和感。


嗚呼、そうか。


もう一度唇を舐めた。
今度は故意的に。
握った手の平がじんわりと汗ばんでいる。


俺は、命に、キスをしたのか。






―――― 同 じ 夜 ―――― 






問診が終わり、一つため息を吐く。
私は如何して、こんなに安堵しているんだろう。



もう誰にも、取られないで済むんだ。



景兄さんが帰った後、だらしなく机に突っ伏した。
景兄さんが居る空間は、酷く私を安心させる。
居心地がいい。

だけど、それと同じ位、
時々凄く苦しくなった。

それなのに、傍に居て欲しいと思うなんて…まるで被虐体質の精神病患者みたいだ。




開けていた窓から冷たい風が吹き、髪を揺らした。
冷たいのは、好きだ。
暑いのは苦手だ。
夏よりも、冬がいい。


嗚呼、でも、


つい先迄景兄さんが腰掛けていた椅子に視線を向ける。
私に隣り合ってくれる、景兄さんの、温もり。


あれは、暖かい。



抱き締められた時の体温を思い出す。
慣れない人肌の体温。
戸惑った。
戸惑ったけど…決して嫌ではなかった。

目を閉じて、景兄さんを思い浮かべる。



「…欲しい」



欲しいと想った。
誰にも渡したくない。
だから、景兄さんも、私と同じ位、
…それ以上に、


欲しがれ。


そう想った。

なんて、罪深い、感情なんだろう。
強欲。欲求。欲望。
浅ましい欲が、私を覆うと、脳がくらくらと眩んだ。


これが世間一般で言う恋愛感情、と云う奴なのか、
それとも、只の行き過ぎた執着なのか分かる由もない。
でも、どちらにせよ、私にとっては、無くてはならない存在で在る事は確かで――――


失いたくなかった。
失わないで済むなら、何だって構わない。
傍に、居て欲しい。


好きだとか、恋だとか、人の口から聞く事は有っても、
実際の所よく分からない。
何時かそんな身を焦がす感情を体験する事が有るんだろうか、そう思って今に至った。
私は何ら変化はない。
…ない、はずだった。


景兄さんには、それなりに女の影がちらつく事も有った。
でも、見て見ぬふりをしてきた。
今迄、ずっと。
知らなくていい事は、やっぱり知らない方が、いい。
知って傷つくより、ぼかした方が、ずっと、いい。

だから、湧き上がる感情に、目を背けて、耳を塞いで、押し込めて、蓋をしてきたのに。



欲しがれ。



安堵した。
自分だけじゃ、ない。



目を開ける。
そこには、見慣れた景色が広がる。

最後に抱き締められたのは何時だろう。
どうも思い出せない。
抱き締めて欲しいと思っても、私は泣く事も、甘える事も、出来なかった。
…本当は、ずっと、景兄さんに抱き締めて欲しかった。


だから、
嬉しかった。
如何しようもなく、


唇を舐める。


嗚呼、私は――――


景兄さんに、キスをされたんだ。







ちょっと黒い命って惚れませんかこれ
私だけですかこれ

純粋すぎて黒くなるっつー
いわゆるヤンデレ的な
黒い癖になんか切ない感じが出したかった…
ので、伝わるといいなー

まだまだ続きます。