命は公園のベンチに一人越し掛け、上空を見詰め、暮れゆく空を眺めていた。 昼と夜の狭間。 空が黄昏色に染まっている。 先迄騒がしく駆け回っていたこども達の姿は何時の間にか無くなっていて、 残されたブランコが風に吹かれて、軋んだ音を立てた。 長い影が、伸びる。 何時もの命の生活パターンでいけばこの時間帯は とっくに帰宅して、夕食が出る迄の間の、勉強をしている時間帯だ。 今は、家に帰りたくなかった。 一人、空を見上げる。 青と紫と橙の雲が、織物の様に、遠くビルの狭間に消えていく。 この儘では、直ぐに夜に成ってしまうだろう。 命は一つ、溜息を、吐いた。 先の景の一言が、心に重く圧し掛かっている事に、気付きたく無かった。 *** 「おい、命。お前が欲しがってた本な、置いてる所見付けたぞ」 昼休みにわざわざ命の居る一年の教室迄来て、嬉しそうに景は云った。 「其れは有り難いですけど…何でわざわざ教室迄来るんですか?」 「家に帰ってから云っても、遅いだろ。今日一緒に帰ろうかと思ってな」 詰まり、命の本買いに付き合ってくれる、と云う事だ。 周りくどい事が嫌いな景だ。 多分何処の本屋に売っているのか説明するのが単に面倒臭いんだろう。 (わざわざ学年の違う命の教室迄出向くと云う行為は、景の中では面倒事に値しない様だ) 「放課後、迎えに来るから」 「分かりました」 命は一礼した。 景が命の頭を一撫でし、教室を後にする。 所が、放課後、何時に成っても景が現れる気配は無い。 授業が終わり三十分程経っただろうか。 命は律儀にも景の迎えを待っていた。 「忘れてるんじゃないでしょうね…」 一つ、小さく溜息を吐く。 景は、自分から約束した物事を忘れていたりする事が多々有る。 命にとっては信じられない事だが、如何も治らない様だ。 其れでも其の儘放っといて帰る、なんて命は出来なかった。 仕方なく腰を上げ、景の居る教室へと、歩を進めた。 *** 余り見慣れぬ三年棟を歩く。 上級生達が命に微かに視線を送るのが、何だか居心地が悪かった。 其れも此れも全て、景が悪い。 約束をしていて、待ち時間にかなり遅れるなんて(しかも帰っている可能性も有るなんて)、言語道断だ。 命は又一つ、小さな溜息を吐く。 そして漸く景の居るクラスへと辿り着いた。 半端に開いている扉から、中の様子をこっそりと窺った。 果たして、景は残っているのだろうか。 ふと、女生徒の甲高い笑い声が命の耳に飛び込んで来た。 「やぁだ、糸色君。其れオカシイよー」 続いて、キャハハハと笑い声が聞こえた。 「失敬な。此れでも真剣に言ってるんだが」 聞こえて来た声は、よく知った景の声だった。 命は其の瞬間、其処から動けなくなった。 其処で見た物は、命の知ってる「兄」としての景では無く、困った様に笑う「クラスメイト」の顔をした、景だった。 …あんな顔で、笑うんだ。 何と無く、声を掛けづらくて、命は景に気付かれぬ様に、踵を返そうとした。 其の瞬間、 「あれ、命?」 景が命の存在に気付いた。命は思わず、身を竦めた。 景の目敏さに、思わず悪態を吐きたく成った。 仕方なく、命とは景に向き直った。 景と談笑をしていた女生徒は、驚いた様に眼を丸くして、其れから命に向って微笑んで見せた。 命は其の笑みの代わりに、一礼した。 「ふぅん、貴方が糸色君の弟、なんだぁ」 何かを含む様な口調で、彼女は言葉を紡いだ。 そんな様子に、訳も無く、苛立った。 命は、何も返答せず、微かに視線を反らした。 そんな命の様子を気にする事無く、彼女は再びにっりと微笑み、くるりと、踵を返した。 「じゃあ、私、帰るね」 彼女は背中を向けた儘、ひらひらと手を振り、教室を出て行った。 *** 二人きりの教室。 流れる沈黙に耐え切れなく成り、命は口を開いた。 「約束、お忘れだったんじゃないですか?」 「約束?覚えてるよ」 ――――嘘だ。 咄嗟にそう思ったのは何故だろう。 命は、俯いた。 其の瞬間、命の癖の無い漆黒の髪を、風が揺らした。 「あの方と帰らなくても善かったんですか?」 「え?いや、今日はお前と帰るって約束してただろ?」 ――――今日は、か…。 では明日は如何なんだろう。明日は彼女と下校するのだろうか。 本当なら、今日も彼女と帰る予定だったんじゃないだろうか。 「私が弟だ、って知ってるんですね」 「まぁな。付き合ってたしな」 一瞬、命の時が止まる。 鈍器で頭を殴られた様な、衝撃を受けた。 「兄さんが?あの方と、ですか?」 「あぁ。オカシイか?」 「いえ…」 其れ以上何も云えなく成り、命は押し黙った。 「ちょっと待ってろよ。今急いで準備するから」 そう言い、景は背中を向け、自分の席へと向う。 其の背中に、命は無意識に、小さな声で呟いた。 「まともに女性と…付き合えるんじゃないですか」 「え?何か云ったか?」 「帰ります」 俯いた儘、今度ははっきりと口にした。 景は面食らった様に、振り向いた。 「お前、ちょっと待てよ。あと一分位、辛抱出来ないのか?」 「…帰ります」 命は、焦って帰り支度をしている景を置いて、教室から飛び出した。 *** 勝手に、頭の中で先の景の言葉がリフレインされる。 命は大分薄暗く成って来た空を見詰め、大きく、溜息を吐いた。 …馬鹿みたいだ。 別に景兄さんに昔彼女が居たなんて、今の自分には何も関係の無い事だ。 言葉では割り切れる。 だが、感情が其れを許さなかった。 自分達が決して許されない禁忌を犯している事は、自覚している。 何が原因だったのか、 そもそも何が始まりだったのか、 何処から間違ってしまったんだろう、 そもそも最初から間違いだったのかもしれない。 何一つ、正しい道なんて、歩めて居ない。 そう思ったら、足元から地面が崩れていく様な喪失感に襲われた。 苦しくて、仕方が無かった。 ――――考えるな。何も、考えるな…今に始まった事じゃない。 自分で自分がよく分からなく成った。 考える事を、放棄してしまいたい。 マイナスの分野で利巧に働く思考が、疎ましくて仕方が無くなった。 命が軽く額を抑えた其の時、 「…やーっと見付けた」 顔を上げると、其処には景の汗だくに成った顔が見えた。 「け、景兄さん、何で…!」 驚いて、反射的に逃げ出そうと体が動いた。 其の腕を、景が掴む。 「もう逃げるなよ」 「っ…、」 景は呼吸を整える様に、大きく息を吐いた。 「あー…ダれた。久々だ、こんな走ったの…お前意外と足速いんだな」 「追い掛けて来たんですか?」 「追い掛けて来たよ。めちゃくちゃ大変だった。すげー疲れた…」 景は疲労した顔で、微かに口元に笑みを作った。 「…そんなに大変だったなら、あの方と一緒に帰ったら善かったんじゃないですか」 うっかり口に出してから、命はしまったと思い、口に手を当てた。 最初驚いた様な顔をした景は、みるみる内に顔を綻ばし、笑顔を見せた。 「何だ、命。お前、ひょっとして…やきもちか?」 「ば、馬鹿な事言わないで下さい!」 命は思い切り景の体を突き飛ばした。 渾身の力を込めて突き飛ばされた景は、疲労してた事も相まって、上体をかなり崩した。 「本気で怒るなよ、仮にも兄貴なんだぞ、俺は」 「景兄さんが馬鹿な事言うからじゃないですか!!」 怒鳴られた癖に、景は嬉しそうに顔を破綻させていた。 満面の笑みを向けられ、命は思わず後ずさった。 「何、笑ってるんですか?何処かオカシイんじゃないですか?」 皮肉交じりの言葉を吐くが、景は一向に動じる事が無く、にこにこと微笑んでいた。 「あぁ、オカシイよ。もうすっかり狂ってるんだ」 「はい?」 「先の女と別れたのも、お前を追って馬鹿みたいに駆けずり回ったりするのも…、」 言葉の合間、景が命を抱き締めた。 こんな人目に付く所での景の突然の行動に、命は目を丸くし、動揺した。 「ちょっと…、景兄さん…!」 全部…命の所為だから。 「な、何言って…、」 景から命の表情は見る事が出来なかった。 だが、命の耳が真っ赤に染まっているのだけは、見えた。 恐らく真っ赤な顔をしているのだろう。 伝わってくる体温が景よりも暖かく成っていく事からも其の事は窺えた。 (命は平熱が景より低かった) すっかり暮れてしまった空。 街は、夜に成ろうとしていた。 「命、明日改めて学校帰り、本屋に行こうか」 耳元でそっと呟くと、命が首を縦に振るのが、見えた。
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